察する文化
お久しぶりでございます。
半年ぶりです❕
書きたいことがなかった、というよりかは自分に目を向ける時間がないほど忙しく😅
久しぶりに自分を見つめ直す機会があったので、文字に起こしています。
今回のテーマは、日本人特有の"察する文化"についてです。
皆さんは普段の生活において、相手の顔色を伺ったり、何となくそうなのかなと相手の心理を自分の中で予想立てたりすることはどれくらいあるでしょうか。
言わずもがな、私を含めHSPさんはたくさんあると思います。HSPの気質がなくても、"察する"人は少なからずいると思います。
"察する"ってどういうことなのでしょうか。
相手が言葉にしていない気持ちは、漫画のように吹き出しで表されているわけではありません。本人にしかわからない。
例を挙げましょうか。
仕事をする上で責任感が強く、自分で抱え込んで必死になるAさんがいるとします。
Aさんは、率先して動き回って仕事をこなします。"きっとこの方が、他の人の負担も減らせて自分も後々焦らなくて良い"と考えて。
Aさんは言葉にするわけではありませんが、"周りのためを思って"動きます。
Aさんの行動は↑のように思った上での行動でしたが…さてどうでしょうか。
一緒に働くBさんCさんの登場です。
もちろん、Aさんが思っていた通りに思ってくれる人もいると思います。
"進めてくれてありがとう、他の部分頑張るね"
という未来です。
ですが、そうではない未来もあります。
"なんでそんなに動き回っているんだ?"
"なんで1人で焦ってるんだ?"
"もしかしてイライラしてる?"
"何かしちゃったのかな"
Aさんは、自身で考えた上で行動しています。
しかしそれは、他の人の意見をもらったわけではなく、あくまで"きっとこの方がいいな"とか"この方がみんなのためだな"というAさんの頭の中でのみ導き出された答えなんですね。
相手のためを思ってした行動が、違う風に捉えられてしまうこともあるということです。
日本人の"察する文化"の怖いところ。
それは、お互いが、相手に真意を確かめることなく自己完結しているところです。
言語化されていない相手の気持ちは、相手にしかわかりません。しかし、人はそれを予想します。都合の良いように予想してしまう時もあると思います、先程挙げた例のように。
"察してほしい"という気持ちを持つことは誰しもありますよね。
どうしても体調が悪かったり、言葉にできないほど心がやられてしまっていたり。
ですが、周りはあくまでも自分以外の人間だということを忘れてはいけない。察してほしいと思うなら、誤解されるリスクもあるということを忘れてはいけなかった。
今回例に挙げたAさんは私のことです。
反省も込めて、伝えたいことと織り交ぜながら文章にした次第です。
忙しすぎる現代社会において、言葉でのコミュニケーションは減りつつあります。
文字だけのコミュニケーションでは、どうしても相手の顔色、表情、話のトーンなどが100%は伝わりません。
忙しすぎるからこそ大切にしなければいけないのは“対話"です。忙しいから"察してほしい"と思うのは間違っています。
全員が察してほしいと願ったら、人は周りの顔色を伺いながら生活し、働くことになるんです。
そんな状況、怖すぎではないでしょうか。
周りが何を考えているかわからない。
まずは自分の気持ち、状態を言葉にするコミュニケーションから始めてみることが大事だと私も学びました。
どうかこの投稿を読んでくれた人が、自分の置かれた環境で、コミュニケーション不足のすれ違いを起こしませんように。
私はそれを願うばかりです。
良いコミュニケーションが取れている環境は、きっと自分も周りも居心地の良い場所になるはずです。まずは自分から、一歩を踏み出してみませんか。
自分の置かれた環境に不安を抱えている方へ